ねこのめ

ねこのめみたいにくるくる回る日常の出来事

Li Tobler / リー・トープラー



リー・トープラー(1948年-1975年5月19日)はスイスの舞台女優。
H.R.ギーガー作品のモデル、ギャラリー経営者。

またギーガーの恋人としてよく知られている。



トープラーの幼少期に関してはあまり分かっていないが、1948年にスイスで生まれている。
1966年にスイスの演劇学校に通い、役者を志しているときに、シュルレアリストH.R.ギーガーと出会う。

ギーガーは、全裸の彼女をキャンバスにしてボディペインティングを行うなどトープラーをミューズ化。
生と美貌を永遠化する作品を制作。彼女をモデルにした代表的な作品が
彼女の顔が機械と生体のバイオメカノイドで覆われた「リー・シリーズ(Li�TとLi �U)」である。

ギーガーによると、トープラーは「巨大な精力と生の欲望」を持った女性であり、
また「太く短い人生」を望んでいたという。トープラーは、極度の情緒不安定、重度の薬物依存、
肉体的苦痛に苛まれて、27歳という短い人生で終止符を打つ。


「Li II」






役者として活躍

ギーガーと出会うまで、トープラーはギーガーの親友で当時のボーイフレンドだったポール・イーブルと、
非常に狭く汚いアパートに住んでいた。経済的な問題もあり、唯一美術学校を卒業して、
デザイナーとして働きはじめたギーガーが彼らと部屋を共同生活を始めるようになる。

ポール・イーブルが共同部屋から出て行くと、ギーガーとトープラーの関係は徐々に恋愛に発展。

経済的に困窮していた2人は、家賃のいらない近くの廃墟アパートの屋根裏に引っ越しする。

1968年に廃墟アパートが取り壊されると、
ほかの廃墟アパートへ移動して暮らす乞食に近い生活をしていたという。

トープラーは演劇学校を卒業すると、1969年にチューリヒから約50キロ離れた場所にあるザンクト・ガレン州のスタッドシアター劇場で役者として活動開始。この時代、ギーガーとトープラーは週末に会うぐらいだった。

トープラーはスタッドシアターに2年間、役者として活躍したあと、1970にチューリヒに戻る。

しばらくして、ギーガーは伯父から少し遺産を受け継ぎ、
その遺産で郊外に家を購入して、二人は同棲するようになる。

また、トープラーはアールガウ州のバーデンにあるカラーシアター劇場で役者として活動を始める。

伝えられてところによれば、二人の生活は、ドラッグの常用や乱交により、非常に騒がしかったものだったという。

ある日、トープラーが家に帰ってこなくなったので、
不審に思ったギーガーは高速道路で事故を起こしていないか彼女を必死に捜索した。
見つからなかったが、3日後に彼女から電話があり、極度の焦燥感にさいなまれて蒸発の旅に出たという
(ギーガーはのちに、おそらく別の愛人の男のところへいっていたのではないかと語っている)



役者の引退と自殺

トープラーは演劇『マイ・ウーマン』の主役としてスイス全国を巡業することになったが、
130を超えるハードなスケジュールと日常的なエロティック・ライフによる混乱で、
肉体的にも精神的にも負担をかけることになる。

その結果、トープラーはギーガーと別れることを決意し、また同時に役者人生を引退。

その後、トープラーは新しいアメリカの彼氏とサンフランシスコへ移住する。

しかし一ヶ月も経たず、スイスへ戻ってくる。ギーガーによれば、
トープラーはアメリカのライフスタイルに全く馴染めなかったのだという。

そして、またギーガーと関係を再開し始める。

しかし、演劇引退後、トープラーはひどく落ち込み始めるようになり、
徐々にうつ病と無気力に苛まれることになる。

対照的にギーガーは芸術家として最も活動的な時期に入り始める。

トープラーは自殺未遂を起こすようになったので、友人の一人がトープラーに
自分自身を表現するためのギャラリーを開いて、再活動するようアドバイスをする。

そこでトープラーはギャラリーを開設し、自身を表現するとともにマーノン、ウォルター・プレファー、
ドルジャン・クロークなどの近代美術家たちの作品を紹介するようになる。

トープラーが新しい活動に入り始め、初期衝動のような熱気を帯びてきたにもかかわらず
1975年、27歳でベッドの上でピストル自殺。床の上に大きく「さようなら」と書かれていた。