不機嫌な人は相手の不機嫌に傷つけられる。
相手の機嫌に、自分の機嫌が左右される。
相手の機嫌に自分の機嫌が左右されるからこそ、不機嫌な人は相手の不機嫌に敏感なのである。
不機嫌な人は、相手の不機嫌に耐えられない。
それはそれだけ相手の不機嫌から自分が影響を受けるということである。
相手に投影的に同一視している以上、
相手の気分がこちらの気分に直接影響してきて当たり前であろう。
相手は自分と分離した別の人間ではないのである。
自分の好きなものを相手は好きではないというような存在ではない。
自分は相手を見ているつもりになっている。
自分は相手と接しているつもりになっている。
しかし自分の接しているのは、もう一人の自分でしかない。
相手のことを決め付ける人というのは、
逆に相手から心理的に直接影響を受ける。
相手が不愉快そうにしていれば、それに耐えられなくなる。
相手の不愉快さは直接自分に跳ね返る。
自分も機嫌よくしていられなくなる、それだけに要求の多い人になる。
いちいち相手の気持ちに干渉していかざるを得なくなる。
それだけに投影的に同一視された側にしてみれば、
何か絡まれたような気持ちになる。
そのうえ何やかやと要求される。しかも自分を自分として扱わない。
実際の自分とは違った人間として自分を決め付けてくる。
投影的同一視をやめることで、
自分が相手の言動から解放されるのである。
相手の否定的な感情から自分が直接影響されるということがなくなるのである。
相手の気持ちと思っているもののうち何割かは、自分の気持ちであるということである。
相手は自分とつき合うのに何か利益を求めているというように思う。
何か得しようとして自分とつき合っているのだろうと感じる。
そのように相手を理解する。
その理解が正しいことはもちろんある。
しかし、ときにそれは自分が相手とつき合っている理由であることがある。
もちろん、この気持ちは抑圧される。
自分は相手のことを好きだからつき合っていると意識のうえでは思っている。
しかし無意識には、相手とつき合っていれば何か得することがあるだろうということを期待している。
こんなとき、何かつき合いがしっくりいかないものである。
うまくやろうとする意識的努力にもかかわらず、どこか気持ちがちぐはぐになる。
いくら相手を認める発言をしても何か雰囲気が白々しくなる。
また、何か相手とのつき合いで気が引けてみたりする。
別に気が引ける必要など、どこにもないのに気が引ける。
相手と一緒にいる時間が
相手にとって無駄なのではないかと気が引けてみたりする。
相手が自分と一緒にいることだけで満足しているということが信じられない。